記:梁瀬 俊之


 ・登山期間:1998年 9月12日~10月20日(BC入りの日~BC撤収日)

隊長:

粟飯原 一成

登攀隊長:

林 雅樹

隊員:

睦好 正治、梁瀬 俊之、西川 大輔中村 友紀、井上 賢一
 10月15日、アタック日。この日の為に、我々は約1年間夜遅くまで打ち合わせをしてきたり、真夏の暑い日に梱包作業を行い万全の準備を整えてきたのだ。すべてはこの日のある瞬間の為に・・・。その努力がこの日に全て報われる、はずだった。

この日は単にアタック日というだけでは無かった。非常に偶然な事なのだが、私にとって25歳の誕生日でもあった。私はこの奇妙とも思える偶然に、一抹の不安を感じたのを覚えている。「俺の人生は、ちょうど25年を生きた今日終わる事になるのではないだろうか!?」  本気で心配していたわけではないのだが、いずれにしても私はこの偶然をなぜか素直に喜ぶ事ができなかった。そりゃ誕生日に登頂を成功させればこれほど素晴らしい事はないし、私にとっては山からの何物にも変えられない誕生日プレゼントだ。しかし、人間というものはこの様な時どうしてもマイナス思考が働いてしまう。もし、滑落か何かを起こして死んでしまったら?、この25年ちょうど、というあまりにも区切りの良すぎる人生に周囲は何か運命めいたものを感じずにはいられないだろう。

BC入りしたのは誕生日、いやアタック日の約1ヶ月前のことだ。BC入りと言っても車で入れる所だ。近くにランゴロ村というチベット人の集落があり、CMA(中国登山協会)の連中はここで我々の登山活動を見守ることになる。ここから先、2日のキャラバンでABC入りすることになるが案内役がCMAからランゴロ村のヤク工達にかわる。大きな個人荷物や隊装備の担ぎ手はヤクだ。このヤクをヤク工達が追ってキャラバンが進んでいく訳だが、ヤク工達は気ままなものだ。しばらく順調に進んでいたのだが、突然メシにする、と言って休憩を始める。その休憩が長い。1時間たってもまだ出発する気配を見せず、2時間近くたってようやくだらだらと出発を始める、といった感じだ。  そうかと思えば2日目のキャラバンでは標高が高くなってヤクたちが元気になったのか、急にハイペースで歩き出し、完璧な順化が出来ていない我々がそのペースに着いていけず、どんどん引き離されていくという始末だった。当初は1日で着く予定だったが丸2日かかってしまったABC設営地は、ツォ・ツプツェという氷河湖が上流にある小川のほとりでドゥヤ・ヌ氷河とドゥヤ・シャー氷河が最も接近した場所にある。水は何の問題も無く確保できるし、これから長期間登山活動を行っていく為の基地としては全く申し分なかった。

頂上へ至るルートは可能性として、ドゥヤ・ヌ氷河をつめる方法とドゥヤ・シャー氷河をつめる方法の2通りあった。いずれの氷河も7100m峰の基部付近を源頭にして北へ落ち込んでいる。従って我々の登山活動は、まず両氷河の偵察から始まった。ドゥヤ・ヌ氷河は林・睦好、ドゥヤ・シャー氷河は林・梁瀬で偵察を行った結果、ルートはドゥヤ・ヌ氷河をつめる方法でとることとなった。ドゥヤ・シャー氷河は7100m峰の手前にあるもう一つのピーク、チョクトンカブの基部で急峻にせり上がり、急雪壁となっていたのでかなりの登攀を強いられる可能性がある、と考えられたためこのルートは偵察の直後、即放棄された。

ルートが決まれば、もう後はひたすら上を目指すのみだ。9月19日、ハイキャンプ設営のための荷上げを開始する。ABCからC1設営予定地までは氷河のサイドモレーンをひたすら歩いていく。氷河の中には入らない、というか入れない。氷河の下部は氷塔氷河を呈しており中に入ったらまるで迷路だ。サイドモレーンには雪が全く着いていなかったので、C1までは何も問題無く軽登山靴で入ることが出来たが、モレーン側の斜面からひっきりなしに落石がくるので常に神経をとがらせていなければならなかった。C1までは、落石の事を除けば特に難所と言えるほどの難所はなかったが、C1設営地のすぐ手前に1ヶ所、クレバスがサイドモレーンまで食い込んでおりいわゆる「へつり」を強いられる部分があったので、そこだけボルトを打ってフィックスを張ることとなった。

C1設営地に来て、初めて我々が目指す7100m峰の全容を望む事が出来た。ABCからでは7100m峰の手前にある6658mのピークが邪魔になり、目を凝らしたら7100m峰の頂上稜線がわずかに見えるという程度だったが、ここではこれから取るべきルートを肉眼でしっかりと確認することができる。ここで、大まかではあるがC2、C3の設営地も決定することができた。C1のすく横にあるドゥヤ・ヌ氷河は、上部にいくに従い氷塔の規模が小さくなり最後には完全に平らになる。しかしそれに伴い徐々に傾斜を増してきて、7100m峰の懐の直前で下部、上部の2段のアイスフォールを形成する。我々は上部アイスフォールと下部アイスフォールの間のほぼ水平と思われる部分をC2、7100m峰のコブ状になった左肩部分よりさらに下、ちょうどチョクトンカブと7100m峰とのコルとも言える部分をC3設営地として決定した。

9月22日、C2設営地に向けて荷上げを開始する。C2は氷河上になるのでアイゼン、プラブーツ等のいわゆる冬山装備は必携となるがそれでも3分の2近くはまだサイドモレーン歩きだ。それ故、C1からいきなりプラブーツを履いていくのは得策とは思えなかったので、少々重いがザックにつっこんで、軽登山靴でC1を出発した。氷河の氷塔が小さくなり氷河上での歩行が可能になるまでしばらくモレーンを歩く。軽登山靴なので足は軽いが石がゴロゴロしているのでとても歩きにくい。ABCからずーっとモレーン歩きなのでいい加減うんざりしてくる。C1から3時間位モレーンを歩いた所でようやく氷塔が小さくなり、なんとか氷河に入ることができるようになったので、そこで軽登山靴をデポしてプラブーツにはきかえた。ひさしぶりに雪にふれたような気がしたので、なんだかすごく嬉しかったのを憶えている。ここにきて嬉しい誤算が生じた。当初C2に至るのに、下部アイスフォールにおいてルート工作が必要と思われていたが、実際に氷河に入ってみると全くその必要が無いではないか。というのは、下部アイスフォールが形成されていたのは氷河の左岸よりの部分だけで右岸よりの部分はただの緩傾斜になっていた為で、お陰で何も問題無く、しかも1日でC2設営予定地にたどり着く事ができた。この右岸よりの緩傾斜部は、C1からは完全に死角になっており確認することが出来なかった。

予想されていたC1-C2間のフィックス作業が無くなったことで、C2設営は予定以上に早く行うことが出来た。この頃には、林氏を含む我々隊員6名は完全に2チームに分割、林・梁瀬・中村でルート工作隊、睦好・西川・井上で荷上げ隊という役割がほぼ固定化され、ほとんど別々に行動するようになっていた。私は、正直言って荷上げはあまりやりたくなかったので始終ルート工作が出来るこの組み合わせは大歓迎だった。しかし、始終ルート工作を行わなければならないのがどれほど大変であるかと言う事を、このC2設営以降、C2-C3間のルート工作でまざまざと思い知らされる事となる。

荷上げ隊がC2設営のために荷上げを行っている間に我々ルート工作隊はABCで休養を取り、9月26日いよいよC2-C3間ルート工作のためにABCをあとにする。ここにきて、いままでずっと良かった天気が徐々に崩れ出した。C1で1日停滞した後、9月28日にC2に入る。9月29日、悪天のため停滞。C2-C3間のルートとなる上部アイスフォールは下部アイスフォールのように左右に緩傾斜部がある、などと言う事は100%無いのは一目瞭然であったので、これから本格的な登攀が始まる、と気を引き締めていた私はなんだか出鼻をくじかれた気分だった。9月30日、天候回復したのでいよいよルート工作に出発する。しかし上部アイスフォールの取り付きについたと同時に目の前で小規模の雪崩が発生したため、即撤退し、丸1日で雪質が安定するのを待った。翌日、再びアイスフォールへ。1ピッチ目、林氏トップで取り付く。数日間悪天で降り続いた雪はやはり1日では安定してくれなかったらしく、なかなか前に進まない。30m位ロープが延びただろうか?。ドスンという低い音が聞こえた瞬間、真上から雪崩がおこった。幸い発生地点はそんなに高い位置ではなかったため雪崩は取り付きで止まり、ビレーをしていた我々が巻き込まれる事はなんとか免れたが、林氏がまともに流されてしまった。一瞬、雪煙であたりが真っ白になり林氏がどうなったのか全くわからなくなってしまったので、ものすごくアセッた。さいわい自力で我々のいるところまで戻ってこられたので、一同心からホッとした。本来なら、もっと雪質が安定するのを待つべきだという判断のもと、この時点で即撤退を決めるのが良識というか常識だっただろう。だが、今ここで撤退を決めてしまったら、これからの隊の志気が一気に下がってしまうのではないだろうか?、という思いが我々にはあった。ルート工作を行えるのは我々しかいない。この後、我々は登攀ラインをかえてなんとか5ピッチ、ロープを延ばした。しかし上に行けば行くほど雪は深くなり、ますます雪崩の危険性が高くなってきたので、6ピッチ目を延ばそうと思ったが、さすがにこれ以上の行動は危険と考え途中で引き返す事にした。

この翌日我々はABCに戻り休養、10月6日に再びルート工作に出発する。残された登山期間がもうあまりない。次にABCに戻るときは登頂したあとか、あるいは無残に敗退したあとかのどちらかだ。天気は、あれ以来ずっと安定しているのでさすがにアイスフォールの雪質も安定していることだろう。      10月8日、今日こそアイスフォールを突破してやると意気揚々出発した。前回固定した5ピッチに加 え、先発していた荷上げ隊がトレース付けついでに延ばしてくれた2ピッチの計7ピッチをだどりアイスフォールの中間部に達する。雪質は前回とは比較にならないほど安定している。そこから更に3ピッチ延ばし上部プラトーに抜ける最後にして最大のセラックの真下に達した。それは50m以上垂直に切り立っており、左右どこを見回しても突破口がない。C2から双眼鏡で観察していた時からの不安要素ではあったが、まさか本当に突破口がないとは!!。セラックの右端に行ったり、左端にも行ったりしてみたがやはりどこにも可能性を見出す事は出来なかった。そもそもこのセラックの手前にはあからさまにヒドンクレバスと思われるものが左右に走っており、セラックに近づく事さえままならないのだ。せっかく苦労してここまでロープを延ばしてきたのに・・・、大きな絶望感があたりをただよう。しかし、どうしようもないものをどうこう言っても仕方が無い。とりあえず下降して今後の対策を考えていくしかない。このまま敗退か?それともルートを変えて続行か?・・・。

残された登山期間の事を考えると、このままおめおめと引き返すにはまだ早すぎる。しかし今からルートを変更するには時間的にも体力的にもギリギリだ。もうABCに戻って休養をとっている時間はない。ここは標高約6000mのC2、いるだけで体力を消耗させられる世界、長期間の滞在は決して隊員達にとってよい方向にはたらくとは考えられなかった。しかし我々は京都府山岳連盟の名のもと、多くの方々からの暖かいご支援、ご協力を頂いてこの遠征を行っている。それ故可能性がゼロでない限り、なんとしてでも登頂を目指さなければならないという使命があったのも事実だ。そういった思いが私にも他の隊員にも強くあったため登山は結局、このまま続行となった。では新しいルートはどこにとるのか?。一つだけ可能性があった。我々のいるC2から見て、7100m峰の左手にチョクトンカブという、もう一つの7000mピーク(未踏)がある。そのチョクトンカブからドゥヤ・ヌ氷河に向かって落ち込んでいる斜面があり、それをを登ろうというものだ。この斜面は前述の悪天の直後、ひっきりなしに雪崩が起こっていたので、当初はルートにするなどということは全く頭になかった。しかしあの悪天から既にかなりの日数がたっており、ここ数日は全く雪崩ている様子が無かったため雪質が安定したのだろうという判断のもと、少しでも悪天になってきたら即撤退するという条件付きでここを新ルートとして選ぶこととなった。

ここにきて急きょメンバー変更かおこった。いままでルート工作隊で活躍されていた林氏がここ最近体調がすぐれないということでいままで荷上げ隊の指揮をとっていた睦好氏と入れ替わった。これ以降、ルート工作は睦好・梁瀬・中村の3人で行うこととなる。C3へのルート工作にあてがわれた日数は3日、アタックのことも考えるとこれ以上時間をかけるのは登山期間的に無理だ。それに天気も心配だ。すでに10日以上晴天がつづいているので、もういつ天気が崩れてもおかしくない頃なのだ。10月10日、新ルートへのルート工作開始、8Pまで。10月11日、6P延ばし計14P。ここまで来るとあのいまいましい上部アイスフォールを足下に見下ろす事ができ、気分が良かった。そして10月12日、17P目を延ばした時点でまともな固定ロープが底をつく。まさかこんなに長いとは。あと少しで傾斜が落ちて水平になりそうな気はするのだが・・・。25mほどの中途半端なPPロープで18P目をのばすがまだ着かない。19P目、ついにメインロープに手を出す事になる。しかしまだとどかない。更にもう1本のメインロープを固定し20P目、あと一歩なのだがとどかない。もはやコンテ用のロープしか無くなってしまった。時間が時間なので中村氏を20P目の終了点に残し、私と睦好氏の2人でコンテ用ロープを使用してスタカットで更に奥に進んだ。すると20P目の終了点から5分も歩かないうちに急に傾斜が緩くなり、目の前に夢にまで見たC3設営地となる場所がようやく我々に姿を見せてくれた。そこは予想通り、かなり広範囲にわたって安定した場所が確保でき最終キャンプの設営には申し分のない場所だった。しかし、この時の喜び様と言ったら・・・、まるで登頂した時のようにうれしかったのを憶えている。

翌日、C2で待機していた荷上げ隊(林・西川・井上)が早速C3設営地へ荷上げに向かい、その間我々はアタックのために休養をとる。2日後はいよいよアタックだ。10月14日、C3へ移動。20ピッチもロープをたどるのはメチャメチャしんどい。3日かけたとはいえ、よくもまあこんなにもロープを延ばしたものだ。それにしてもいつ頃からだっただろうか?、行動すると咳が止まらない様になったのは。2週間以上も6000m以上の高度で停滞して行動しているのだから体調にそろそろ異常が生じても全くおかしいことはない。私は、もうかなり前から行動をすると咳が止まらない様になっていた。休養しているときは殆ど咳は出ないのだが、一度行動して呼吸が荒くなると、のどがかゆくなるような感覚におそわれ、まるで結核患者のようになった。体調に関してはこの事以外には特に問題になる所は無く、ただこの事だけが悩みの種だった。何せ重病人のようにゴホゴホと咳をしている姿は周りの隊員の目からみて少なからずよい印象は受けないだろうから・・・。C3はかなり風がきつかった。稜線上だからある程度は仕方の無いことかもしれないが、今から思えばあの強風は翌日、翌々日の悪天の 前兆だったのかもしれない。前日に荷上げ隊が設営したテントがこの風のためかなり傾いている。強風なのである程度は仕方が無い。仕方が無いのは何となく分かっているのだが、アタック前ということでかなり気が立っていた我々は無線で荷上げ隊にテントがちゃんと設営されていない、と文句をいう。しかし文句を言ったところで彼ら荷上げ隊はちゃんと自分達の仕事をこなしているので荷上げ隊からすればいいがかりもいいところだ。睦好、中村両氏はどう感じたかは知らないが少なくとも私はこの無線交信の後、なにか言いようの無い罪悪感を感じたのを憶えている。荷上げ隊は我々のアタックのために荷上げ、テント設営まで行ってくれているのだから。そんな彼らの好意に答えるには、やはり登頂しかないだろう。ひとつ書き忘れたが彼ら荷上げ隊はこの時点で、既に彼ら自身のアタックはほぼ絶望視されていたのだ。

10月15日、ついにアタックの日がやってきた。ここまでこぎつくのにC2設営以来、悪天、雪崩、ルート変更等、実に多くの障害が我々に立ちふさがり、一時はC3設営さへも危ぶまれていたものだったが、荷上げ隊も含む隊員全員の不屈の精神力のお陰でなんとかこの日を迎える事ができるようになった。「この山は既に相当の試練を我々に課してきた。その為、さすがにもうこれ以上の試練を我々に要求してくることは無いだろう。」私はそんな都合の良い事を考える事によってアタック時の不安や緊張を紛らわせていた。しかしこの考えは、しばらくして甘い考えである事を思い知らされる事となる。出発時の天気は、前日と比較して風もだいぶおさまり、まさに絶好のアタック日和と思われた。雪も程良くクラストしており、アイゼンがギシギシと小気味のよい音をたてる。出発して数時間で7100m峰の左肩の頭にでた。急に視界が開け、今まで見えなかった7100m峰の南側の世界、ネパール側の荒々しい景色がようやく我々にその姿をみせてくれた。今まで、いやと言うほど見てきたチベット側の景色を大平原とするなら、ネパール側のそれはさながら針地獄のようだ。我々はしばらくそのすさまじい景色に目を奪われていたが、ふと7100m峰の頂上稜線に目がいった瞬間に付きつけられた非情なまでの現実に、すぐに我にかえる事となった。  なんとナイフリッジではないか!?。しかも半端な切れ落ち方ではない。この山は北面どころか南面もスッパリと切れ落ちており両面が壁になっていたのである。頂上稜線がナイフリッジになっているか、そうでないか、と言う事は実はかなり前からほんの少し問題になっていた。しかし、この問題は机上論でどうこう言っても仕方のない事で、まさか極端なリッジになっている事などないだろうと楽観視していたし、仮にそうなっていたらそれまでの事だ、とあっさりと考えていた。しかし今、その小さな問題が大きな障害となって我々の前に立ちはだかっている。しかも更に悪い事に、いつの間にやら天気が悪くなりかなり風がきつくなってきた。本来ならば、それまでの事とあっさりと引き返す事が正しい判断だったかもしれない。しかし我々は往生際悪く、北面をトラバースするようにしてジワジワと頂上に接近してみた。だが、下降の事も考えるとこれ以上進むのは極めて危険であると考えて、急にリッジの傾斜が強くなり始めた標高約6940m地点でついに撤退を決意した。

我々は、というより少なくとも私はまだ完全に諦めた訳ではなかった。左側の頂上稜線がナイフリッジのため駄目だった。ならば頂上を挟んだ反対側の稜線、右側の頂上稜線はどうだろうか?。周りの目から見れば非常に往生際が悪い様に感じるかもしれないが、この際私はあらゆる可能性を確かめて見たかった。幸いC3から反対側の稜線には、7100m峰の基部をトラバースすれば比較的容易に取り付けるように見えた。  しかも頂上を挟んだ右側の稜線は、左側の稜線よりも雪庇が北側に大きく発達していたのでもしかしたら南側斜面は緩いかもしれない、という期待感もあった。私は、翌日もし天気が良かったら右側の稜線から再アタックをかけることを提案し、その考えは翌日天気が良かったらという条件で受け入れられた。しかし、無常にも天気は翌日から本格的に荒れ出す事となるのだった・・・。

この遠征は、残念ながら失敗という形で幕を下ろす事となってしまいました。日本の山では季節を問わずそれなりの経験を積んできたつもりの私ではありましたが、私にとって初めてのこの度のヒマラヤ遠征は実に多くの事を学び、何よりも初登頂を目指すと言う事がいかに厳しい事であるかをまざまざと痛感させられる結果となりました。普段日本の山では、大した前準備もなくフラリと山に出かけボロボロになりながらも何とか成功を収める事ができたという経験が何回もあった私にとって、大の大人が7人も1年前から徹底した準備を行って、全てにおいて完璧な状態で挑んだはずのこの遠征が失敗に終わってしまったという事実は、正直なところかなりのショックがありました。「今までの苦労は一体何だったのか?。あれだけ徹底した準備を行ったのにも関わらず、なぜ失敗したのか?。」具体的な敗退の原因を挙げるのならば切りが無いしそんな事は論じるだけ無駄でしょう。「これが遠征登山なのだ。必ずしも際限の無い努力が報われるとは限らない厳しい世界、ましてや未踏峰ともなれば尚更だ!!。」私はこの度の遠征で、そんな遠征登山の厳しさを実際に肌で感じる事が出来た、と言う事が私自身の一番の経験であったと考えております。しかし、許されるのであれば遠征登山において今だ経験のしていない瞬間、頂上を踏み締める時に感じるであろう喜びをいつか経験できる日が来る事を望みたい、と思うのです。

最後になりましたが、この度の遠征登山に際して、岳連関係、甲南大学関係の多くの方々から、暖かいご支援ご協力を賜りました事を厚く御礼申しあげます。