記 幽霊会員 小林 正秀 

 岩峰会にお世話になったのは、昭和59年秋からの3年間程度だと思います。入会のきっかけは、大学のクラブに充実感がなく退部し、退屈しのぎにパチンコやマージャンに明け暮れ、このままではいかん!と思っていた時、高校時代ワンゲルの顧問であった田中先生(健ちゃん)に勧誘されたためです。

 最初の山行は、御在所岳の岩登りでした。金森さんから「岩登りの道具は何にも持ってないだろうから、何も持たずに来い」と言われて、身一つ(紙袋くらいは持っていったような気もする)で行ったところ、靴も無いという事実に皆が驚き、大爆笑されました。初めての山行で初めての岩登り、知らない人ばかりのメンバーで、おまけに笑い者扱い。この現実を跳ね返すべく、その日はむきになって金森さんについて行き、難しいコースでは裸足で岩にへばりついたのを覚えています。これが岩峰会へのデビューで、「おもろい奴・ガッツのある奴」とのレッテルが貼られてしまいました。このことが、後々の悲惨な山行につながります。

 第一は、入会して3ヵ月もたたないのに、剣岳冬合宿の同行を許可されてしまったことです。今から思うとあれはペテン師(特に健ちゃん)にだまされたとしかいいようがありません。「おまえは初めてだからテント一式だけを持てばよい」と言われ、あの恐怖のカマ型テントを持たされました。下界での重量は20kg程度だが、いざ山に入ると湿気が凍り付き重量は倍以上になる。この事実を知りながら新人にそれを持たせるとは、まことにもって恐ろしい会である。とりあえず、荷物が重く、おまけに凍傷になり、苦しいの一言につきる山行でした。

 その後、平和な山行が続いたのですが、冬の比良山で悲惨な目に遭いました。あの時は、私が調子に乗ってラッセルを続けていました。時々、側方で小さな雪崩が起こり、いやな予感がして、「下山しよか?」と手を休めて後方を見た時、健ちゃんから「もうちょっとで尾根やないか」と返事があった。なるほど上を見るとあと3mで尾根でした。「よっし」と思ってラッセルを再開したその瞬間、超超超・・・超恐い事が起こりました。表層雪崩にまともに巻き込まれたのです。その時の状況は今でもはっきり脳裏に焼き付いています。それについて、文章にするとB5判3ページでも足りませんのでやめますが、とにかく、死の恐怖を心ゆくまで味わってしまいました。今から思うと、槍の北鎌尾根を成功したことで天狗になっていたことが事故の原因なのでしょう。


 そんなこんなで、冬山はそこそこにして、岩登りに励むようになったのですが、健ちゃんお得意の「おまえなら行ける!」の言葉にそそのかされ、岩登りでも悲惨な目に遭いました。あれは、夏山合宿で穂高に行った時のことです。連日岩登りをし、体力的にバテて、おまけに足が痛い状況で、最終日に城倉さんと屏風岩にチャレンジしました。天候も雨模様だし、岩のど迫力に圧倒されていた私は、本当は「やめよ」の一言を言いたかったのです。しかし、「おまえなら行ける!」と言われたら、そうかいな~と思う性格のためチャレンジしてしまうはめになりました。登りはじめから、腕が張って思うように進めない、恐怖で体が動かない、トランシーバーからは健ちゃんの薄情な応援の声が聞こえる。何時間もの悲惨な岩との格闘の末、ついに屏風岩を登り切りました。とても嬉しく、岩峰会に入会して一つのことを成し遂げたような気がしました。しかし、満足感に浸っている途中に、足が痛み出し、やっとの思いで下山はできたのですが、翌日からは入院する事になりました。入院時の体温は40℃を越えており、病名はリュウマチ熱で、長期間入院が必要との診断でした。しかし、その後薬がよく効き、1~2週間程度の入院を3回繰り返しただけで、今は健康です。この原稿を書きながら気付いたのですが、あの穂高の山行が岩峰会での最後の山行になりました。


 岩峰では、悲惨な山行をいくつか体験しましたが、今となっては悲惨な山行ほど良い思い出です。3年間の少ない期間に人生の半分を体験したような気もしています。山に行かなくなって5年以上になりますが、会報を読む度に、岩峰の人達と山(岩と雪は除く)に行きたいと思っていますし、あの頃のメンバーとも会いたいな~と思っています。久しぶりに岳連ルームで鋤焼きをしようじゃありませんか、昔のようにマツタケをどっさりとはいきませんが少しなら用立てます。

 

 来月は城倉さんです。