記 足立 健一 

 1976年、私は兵庫県尼崎市に暮らしていた。北に六甲連峰を望む工業都市である。この年は私にとって記念すべき年となった。というのは、登山というものを初めて意識して六甲山へ登ったったのが、この年であった。

 その頃、私の気に入っていたルートは、阪神電鉄御影町から住吉川をさかのぼり、六甲最高峰に登るる道であった。御影駅を10時頃に歩きはじめて、30分も歩けば山の中へ入ることができる。ひと汗かいた頃にふりかえれば、神戸市街と瀬戸内海を望むことができた。吹く嵐はさわやかで、心があらゆる束縛から解放される一瞬であった。この一瞬がなにものにもかえがたく、私はひとりこの道を何度か訪れた。

 時は流れ1995年。京群へ移り15年がたっていた。六甲山との距離は地理的な距離以上に遠く感じられ、訪れることは少なくなった。

 1月16日、あのいまわしい阪神大震災が神戸の町を、そして六甲の山をおそつた。神戸に行かなくては、そして何かお手伝いをしなければという思いが強くなる反面、傷ついた神戸をそして六甲を見たくないという気持ちが私の中にはあった。

 

 3月末、六甲の登山道整備のボランテイアに思いきって参加した。何年ぶりかに訪れた六甲であった。壊れた家や道路は震災のむごたらしさをまざまざと見せつける。登山道には地割れが走り、車ほどもあるような岩が道をふさいでいた。私たちは地割れをまたぎ、岩を巻くように新しい道をつけた。ひと仕事終えて山をおりてきたとき、車のの動きは活気に満ち復興に対する、神戸の人々の自信を感じさせた。私の2ヶ月間の憂鬱は少しはれた。充実した1日であった。

 

 思い入れのこの山このルートはたくさんあるけれど、やはり六甲が私のバックボーンであるように思う。山へ行く日数がめっきり減った今日この頃、あの頃の山に対する思いを忘れないよう、滝谷へ、冬の剣へ、そしてヒマラヤの8000m峰へ夢を一つずつ実現していきたい。

 

 次回は黄金のパートナー中島憲一さんの登場です