記 中島 憲一 

 子供の頃も学生時代も、特別に山や自然に関心があった訳ではないのですが、これほど山好きになったきっかけは、ある年の早春、奥伊吹にスキーに行ったときのことでした。そのとき見た山の美しさ、印象が忘れられず、その後湖北の山や比良山を歩くようになったのが、そもそもの山との出会いでした。

 最初の頃は、健康とストレス発散の為のハイキングといった感じで登っていましたが、山に登る都度にいつも、すがすがしい感動と発見が得られ、苦労して山頂に立ったときの悦びや、美しい景色を眺めながら憩うひとときは、心があらわれるようでした。そしてそれがまた未知の山への憧れや好奇心を誘い、徐々に山に魅せられていったようでした。

 その頃、特に良く登っていたのが比良山でした。交通の便が良くコンパクトで、尾根、森林、渓流、滝、湿原、池、ガレなど地形が変化に富み、何よりも琵琶湖をはじめ伊吹、鈴鹿などの眺めが素晴らしかったからです。当時の僕は、ディパックに弁当と水筒と雨貝それにシェラカッブを詰め込み、キャラバンシューズで、飽きる事なく一人で一日中歩き回っていました。

 週末暇さえあれば足繁く通っていたので、一年もたつとエアリアマッブの全てのルートを踏破していました。また登山用具も少しずつ買い揃え、八裏ケ原や坊村でキャンプ生活を楽しむようにもなっていました。そしてそうした比良登山の総決算が、花折峠から蛇谷ケ峰までの比良連峰全山縦走でした。一人で2日間かけて歩き、入部谷(当時朽木スキー場はまだ無かった)に降りて来たときは、大きな満足感が得られたのを覚えています。

 全山縦走が完成すると、当然この延長にあるのは、冬の比良であり積雪期の全山縦走です。しかし冬山となると今までのようにはいかない。装備は揃えられても、自己流でそれも一人で登るには危険すぎるから。しかし周囲には山仲間も、指導してくれる人もおらず、結局は一から自分でやらなければならなかった。

 まず最初は雪山経験を積むために、スキー場から武奈ヶ岳の往復から始め、雪中キャンプや残雪期の主稜縦走。それと平行して山岳誌や山の本を読み、自分なりに登山技術の研究をする。といった準備を重ね、’83年2月いよいよ積雪期全山縦走を決行することになりました。

 好天の中、平のバス停を後に気合を入れて登り出したのですが、やたら詰め込んだザックの重荷が堪える。権現山の登りから雪が深くなり蓬菜山へ、スキー場の喧操を逃れ打見山を巻いたのが失敗で、ひどいラッセルに泣かされて木戸峠着、その先はまたしてもラッセルの連続。

 この日は烏谷山を越えたあたりでテント泊。翌日は天俵が崩れ雪、北比良捧まで歩いたものの、ロープウェーに里心がついて「また今度挑戦しよう・・・・」となり、全山縦走の企ては、敢え無くく敗退に終わってしまいました。

 

 その後僕は、岩蜂会に入会し本格的に登山を始めるようになった。そして、いつのまにか登山の指向も、山歩きから岩と雪の登攀へと変わって行った。

 入会後も比良山にはよく登り、西面の沢登りや堂滴岳の積雪期登攀など、それまで知らなかった一面を知ることができたのですが、僕にとっての比良山は、次第にトレーニングの山としての意味しかもたなくなってしまったのも事実です。

 この原稿を書きながら思い出してみると、以前あれだけの熱意で取り組んだ、積雪期全山縦走も、いつでも行けるという気安さと近年の暖冬で、再挑戦の機会がないまま十数年が経過しています。もっともこれまでに.冬に登った区間をつなぎ合わせると、既に縦走は完成したことになるのですが、「いつの日にか、花折峠から蛇谷ヶ蜂まで比良連峰全山をたった一人でラッセルして踏破したい。」という気持ちが募る、今日この頃です。

 

 

 ’86年の2月、急に思い立って一人でリトル比良に登ったことがあります。雪が降りしきる中、北小松を出発、登り始めてすぐに新雪のラッセルとなり、涼峠を越えると次第に雪が深くなってきました。

 ヒザ上までのラッセルに端ぎながら、ヤケ山に着いたものの稜線は吹雪.風雪が一段と強まってきました。止めて引き返そうかとも思ったのですが、後続の人が一人登ってきたので、そのまま登り続けることにしました。

 ヤケオ山の手前まで来たとき、どこからか「オーイ」と叩くような声が聞こえてきました。驚いて振り返り、少し後方の単独行の人に「どうかしましたか!」と聞くと「えっ何ですか」と彼ではない様子。「何か聞こえませんでしたか!」と聞いても.「いや、別に何も聞こえなかったが・・・」との返事。

 気のせいだろうか、いやそんなはずはない。確かに聞こえた、誰かの声だ。もしかして道に迷った人が、助けを呼んでいるのかもしれない。慌てて「オーイ、誰かいるのか!」と大声で何度も叫んだのですが、何の応答もなく耳に入るのは風雪の音だけ。近くに人がいる気配は感じられません。

 困ったことに、この風雪の中.降り積もった雪でトレースはすべて消え去り、探すにも手掛かりすらありません。一歩樹林帯に入ると、深雪で腰まで潜ってしまい、簡単に動くことすらできない状態です。

 時計を見るとまだ12時過ぎでしたが、天侯が良くなる気配は全くありません。僕自身もひどく疲れており、この先のラッセルを考えると、下手をすると日没までに降りられなくなってしまう。心残りでしたが仕方がありません。出発することにし単独行の人と交互にラッセルを替わり、釈迦岳を経て無事リフト駅まで降り立つことができました。

 

 翌日、新聞を見て呆然とした。『比良山で大東市の男性が凍死』

 遭難現場は.まさにあのとき穣が助けの声を聞いた場所だった。僕が立ち去った後、午後3時過ぎ、別の登山者に発見されたものの、もはや自力では歩けない状態で、その夜救助隊が駆け付けた時には、既に凍死されていたらしい。

 疲れていたとはいえ.何故あの時もっと真剣に探さなかったのか、もっと注意していれば助けられたかもしれないのに・・・。悔やんでも余りある結末に、苦い思いだけが残ることになった。人の命のはかなさと冬山の恐ろしさを痛感した出来事だった。

 あれから何年もたちますが、今でも冬山で吹雪かれたときに、ふと思い出すことがあります。亡くなられたKさん、ご冥福をお祈り致します。

 

 次回は『岩蜂』の広報部長兼宴会部長、辻博之君です。