追憶の山
蝶ヶ岳
1991 年 12 月 29 日-1992 年 1 月 2 日
2008 年 2 月 9 日-2 月 11 日

徳沢を過ぎて、初老の単独の方が引き返した先は、踏み跡のない白い平原が広がっているだ
けであった。 1 月と違い2 月の奥上高地は随分と様変わりする。1 月なら横尾までも夏道をトレースできるが、2月になると積雪量が多く、徳沢を過ぎてしばらくすれば夏道をトレース出来なくなる。よって必然的に足は歩き易い梓川へと向かう。この辺りの梓川の流れは雪の下に隠れ、広大な雪の平原となる。非常に美しい場所である。風が強くなると地吹雪が生まれ、巨大な白いモンスターが闊歩してくるように風上から来ては去って行く。この山域に初めて足を踏み入れてから 16 年の月日が流れたことに、2 月の大雪原を 1 人ラッセルしていてふと気がついた。


私が山に目覚めたのは 23 歳の夏。バイク小僧であった私は失恋後のツーリングで長野を訪れ、当時マイカー規制のなかった乗鞍スカイラインを経て、乗鞍岳の頂上に立った。ほんの3 時間ほどの登山であったが、その 3 時間は私の人生を一変させた。森林限界を越えた上に広がる壮大な山々の景色。特に目の前に広がる穂高連峰の峰々は私の目に焼きつき、私はすっかり山の虜になった。

山岳会に入会するといった選択肢を思いつかなかった当時の私は、本で読んだ知識を蓄え、道具を買い集めて登山を開始する準備を始めた。 季節は秋から初冬になり山々は雪に覆われた頃に私の準備は完了した。夏山から登山を始めるべきであったと今でも思うが、当時の無知な私は、本で読んだ美しい雪の山々に分け入りたいと真面目に思い、そのために貪欲にいろいろなことを行った。ベランダで夜を過ごしたり、登山靴で毎朝ジョギングしたり、レンガの入ったザックを背負って懸垂したりスクワットしたり・・今から考えると無茶苦茶なことをしていたと思う。 最初の山は脳裏に焼きついていた穂高岳と思ったが、色々な本を読むにつれさすがに無理なことに気付いた。ではせめてその穂高岳を近くで見たいと思い、対岸に素敵な名前の山があることを地図で見つけた。それが蝶ヶ岳だった。12 月に入り、装備や服装の確認、そして雪山トレーニングのため西高東低の気圧配置になった週末を狙い比良山に入山した。1泊 2 日の山行であった。テントなどの幕営装備はそれほど問題なかったが、コンロと服装は最悪であった。コンロは何故か MSR のガソリンコンロを購入していたが、着火が悪く火が安定するまでテントの外で格闘する始末で顔が煤で黒くなる頃にやっと火が安定した。 服装はそれより酷い状況で、昼間の行動中にかいた汗が服を濡らし、就寝時はズボンがあまりに冷たいので脱いで干し、下着姿で寒さに震え眠った。朝起きて乾いていると思ったズボンがバリバリに凍り付いているのを見て呆然とした。ちなみにその時の服装はラクダの股引と肌着、綿のチノパン、何か分からないシャツとセーター、最後にゴアのカッパという無茶苦茶な服装であった。下山後、既に持っていたモンベルのウェアカタログをしっかり読み直し、服装の重要さとレイヤードという言葉を初めて知った。比良山での出来事に懲りることなく、反省点を修正した(つもりで)私は、当時の冬の上高地へのスタート地点である坂巻温泉に立った。しかし必要のなさそうな装備、そして下界で食べるような食料で丸々と太ったザックはたぶん40kg近くになっていたように思う。中の湯の補導所に辿り
ついた時は目がクルクル回り補導してもらいたい心境であった。そんな状況では行程は伸びないのは当然で、吹雪の中、夕方になってやっと河童橋に辿りつき幕営した。α米も知らなかった私は梓川に流れ込む支流である清水川で米を洗い、MSR ガソリンコンロをまだコントロールできなかったので、氷点下にも関わらずテントの外で時々大きな炎をあげながら調理しそれらを食した。当時の私は他の登山者の私への驚愕の眼差しが何故なのかさえ理解できなかった。

16 年の装備の進化は目覚しく、今回初めて使用したスノーシューは絶大な力を発揮し、それほど疲れることなく無人の横尾避難小屋に辿りついた。小屋の中にテントを手早く張り、明朝のためトレースを付けに外へ出た。外は相変わらずの曇り空であったが、キーンと張り詰めた冷気が心地いい。1 時間ほどトレースをつけたあと、小屋に戻り早い夕食を取った。寝袋に入りまどろみながらも日記をつけていた時、16 年前にこの山で決意したこと、そしてその時の憧れに近い想いを思い出した。


40kg近い荷物は 1 泊してもさほど減ることはなく、死に物狂いといった感じで横尾に到着した。避難小屋内にテントを張るなんて芸を知らなかったので、雪を整地しテントを張った。雪がチラつく天気であったが、奥上高地と呼べるこのエリアの雪の平原は本当に美しく、整地する足を止めては「引き返さずにここまで来て良かった・・」としみじみ思った。そして「ここまで来たら登れなくてもいいかな」というのがその時の偽らざる気持ちであったかもしれない。夜半過ぎには満天の星空になり、放射冷却で猛烈に寒い朝ではあったが、薄紫色の空気に包まれた美しい朝が外で待っていた。
日帰りの装備で軽くなった身体は快調で、2~3パーティーを抜き去ると、トレース無い斜面が目前に広がっていた。登るにつれて、木々の間から見える穂高連峰の峰々は、信じられない美しさで背面に迫るようにそそり立っていることが分かるようになってきた。森林限界を超すと頂上はすぐであった。



頂上は寒くはあったが夢見心地の私は、寒いことも忘れ、また写真を撮るのも忘れ、阿呆のように呆けながら目の前の壮大なパノラマを眺めていた。「こんな山々があったんだ・・・」「こんな峰々を登る人たちがいるんだ・・・」圧倒され畏怖の気持ちが私を支配した。同時に「こんな山々を登れるようになりたい」「この山々の先にあるヒマラヤの峰々に分け入りたい」私の憧れがこの時生まれた。

翌朝は 16 年前と同じく好天になった。1 人ラッセルするのも同じで、違いはワカンに代わってスノーシューになったことだろうか。あと齢をとったこと。1 月ではなく 2 月の山であること。様々な違いこそあれ、山への熱意は同じであることに気付いた時は嬉しかった。

頂上では山々は 16 年前と変わることなく私を迎えてくれた。私は 16 年前と変わることなく阿呆のように呆けながら山々のパノラマを眺めた。そういえば大切な友人と 10 年前の 2 月に同じ頂に立ったがその時も今日のこの空のように美しく高く鋭い群青色であったことを思い出した。



スノーシューで自身のつけたトレースを破壊しながら滑り転がり落ち、横尾に帰着した時は、時間はさほど遅くなかったが、黄色くなった空気は夕方のものであった。
16 年前、頂上から帰着したテントの中で、頂上での思索の延長上で日記にこんな言葉を書いていた。 「様々な山に分け入り、自活し、想い、考え、そういったアルピニストになりたい」 そんなアルピニストになれていたのかどうか、そしてまだそうなのか自身では分からない。でも多様な山々に登れたし、生命を預けるような登攀もした。異国の風を抜け、3 国を同時に眺める峰にも立つことができた。幸せな思いだけではなく、辛く悲しい思いもした。1 人山の奥深くで深淵を見つめるような経験もした。人生は山であり山は人生である。そんなキザな言葉も今なら素直に言えるかな・・と暖かいミルクコーヒーを飲みながら思った。
再び紫色の空気に包まれた外に出て、雪の屏風岩を眺め、何も変わっていない山と自分の心に安心した。人間も実は自然と同じように不変のものかもしれないな・・なんて都合のいいことを考えこのちびっこエクスペディションは終了した。


当初は 8 月の穂高岳に行った記録を書こうと思い筆をとりました。しかし 2 月に行った蝶ヶ岳は 15年前の記憶とクロスオーバーし様々な思索に耽りながらの思い出深い登山になり、ほぼ1 年前の報告にはなりますが今回報告させていただきました。私にとって追憶の山でした。

川奈部