掲載写真:『日本の岬』 桐原書店



『知床』それは『地の涯』を意味するアイヌ語の『シリ・エトク』から名付けられた日本に残る数少ない原生の地である。その知床へゴールデンウィークを利用して、栂さんと共に半島基部から知床岬までの縦走を行った。私にとっては二年越しの計画であり、天候にも恵まれ念願かなって無事完走できた。以下詳細を報告する。

第零日(~4月25日)  今回の計画は『岳人』の山行報告1)を参考文献として、岬まで山中7日、岬からの帰路は太平洋側海岸線の徒歩2日、計9日の日程とした。またスキーにより時間短縮を図る計画であった。そのためザックを背に、スキー、プラブーツを両手に持つ重装備で、周りからの視線をかなり感じながら集合場所の京都駅に向かう。23時京都発、東京行きの夜行バスに乗り込む。

第初日(4月26日、晴れ)  11時羽田発、ANKのエアバスA320で中標津空港へ。バスで中標津バスセンター経由、羅臼へ向かう。空からの眺めでは、日高山脈にはあまり雪が無くスキーは駄目だなと思っていた。しかし斜里岳、海別岳など知床半島基部の山々には充分雪がついている。  羅臼では結構町に雪が残っており多少迷ったが、栂さんとの協議の結果思ったほどの時間短縮は出来ないだろうという事で、スキーは断念し送り返すことにした。羅臼では25日夜に60cm以上の積雪があったらしく、開通直前だった知床横断道路は未開通であった。開通していれば知床峠から羅臼岳へのショートカットルートとしたのだが。  羅臼登山口からスタートとするため羅臼キャンプ場に向かうが、キャンプ場は雪に埋もれている。雪の無い知床横断道路のゲート内側に幕営する。

第弐日(4月27日、曇のち快晴)  7時起床。朝起きたついでに熊の湯に入る。今日からいよいよ縦走の始まりである。新たな気持ちと今後の貧しい食生活を思い、気合いを入れながら出発する。キャンプ場内にある登山口から夏山登山道を進むが、新雪のためラッセルを余儀なくされる。ルートも幾度となく見失いながら見晴らし台まで進む。第一壁の直前をトラバースしているとき、斜面上部よりヒグマの真新しい足跡がある。できれば出逢いたくない(安全な距離からは見てみたい)と思っていたが。クマ対策は特にない。クマの方が聴覚、嗅覚共に優れているので、先に気づいて避けてくれるだろうという完全他力本願である。  ラッセルとルート探索のためペースが上がらない。また歩く度に新規購入したザックが、左右に振れ非常に歩きにくく疲れる。やがて雪がない泊まり場が見え、そこで休憩をする。今日の行動予定は羅臼平までであるが、このペースでは日没までには着けない可能性がある。泊まり場は源泉があるため暖かく、ズブ濡れの靴下を乾かすのにちょうど良いのでここで幕営することにし、日没までに濡れものはすべて乾燥できた。  今回の食料は簡略化のため、アルファ米とレトルト食品とした。レトルトでも結構重量があり、軽量化のためにも重量のあるものから消費していく。そこで今日のメニューは親子丼であった。しかし二人でアルファ米一袋なので満腹感が無い。空腹感を抱きながら19時半に就寝にする。

第参日(4月28日、快晴)  4時起床。昨日の遅れを取り戻すべく、ピッチをあげて羅臼平を目指す。ザックのバックレングス部を調整したため昨日よりは歩きやすい。幾つものダケカンバ帯、沢をトラバース気味に登っていくとやがて視界が開け、ハイマツ帯に覆われた羅臼平が見え始める。羅臼岳の雄大な姿が大きく見える。時間的に羅臼岳ピークを踏む余裕がないためサシルイ岳へ進む。その途中、羅臼岳の方からトレースが続いているのを発見。先行パーティーは3人で、昨日のトレースみたいである。先行パーティーの行程は分からないが、残念ながら我々が今春一番乗りではなかったみたいである。  途中の三ッ峰の鞍部より国後島が姿を現し、雪を頂いたチャチャヌプリが見える。緩やかな稜線を進むとサシルイ岳である。眺めは素晴らしく、オホーツク海、硫黄岳連山と眼下には雪原が広がる。雪原めがけ一気に斜面をくだっていく。陽射しが雪原に反射し光り輝く純白と澄んだ空のスカイブルーは知床へ来た価値があるというものだ。  これから知床岬までは国境稜線(網走、根室)を忠実に進むルートとなる。東岳を過ぎるまで硫黄岳外輪火口壁に沿って進んでいくことになる。南岳付近の尾根は雪がなく、登りつめた頃よりオホーツク海より猛烈な風にぶちあたる。何回か風に倒せられながら知円別岳へと進む。知円別岳より東斜面を見ると先行パーティーのトレースが見えるが、我々は忠実に稜線を進むことにする。東岳より少しガスがかかっているが知床岳が見える。ルシャ山まで雪面が続いているのが確認できたので、稜線から離れ標高差700mの斜面を降る。かなり時間短縮ができたと思っていたら、先行パーティーのトレースと出逢う。向こうの方が一枚上手であった。ルシャ山とP731mとのコルで幕営する。

第四日(4月29日、快晴)  4時起床、標高が低いせいか気温が高い。今日は最低鞍部(280m)のルサ乗越までが予定であるが、行けるところまで進むことにする。標高が下がるにつれ、ハイマツ帯、ダケカンバ帯を過ぎ、やがて狭い稜線上にクマザサ帯が出てくる。雪がかなり付いていたためハイマツ帯は予想よりかなり早く通過できた。クマザサ帯を少しでも避けるために残雪をつないで行くが、ヒグマも同じ事を考えているようだった。P382mで休憩をとって、後ろに聳える東岳を撮ろうとウェストバックを覗くと、なんとカメラがない!。クマザサ帯で落としたみたいである。カメラはそれ程惜しくはないが、今まで撮った風景とこれからの風景は記憶としか残らない。誰かに拾って貰うことは非常に確率が低いだろう。  羅臼でスキーを送り返したのは正解だった。東岳の斜面は楽しい滑降ができたろうが、薮こぎに辟易してスキーをここで投げ出していただろう。しかし薮こぎはこの程度ではすまないという事をこの時は知る由もなかった。  稜線を避け残雪をつないでいくと川が現れた。ルサ乗越より降りてしまったらしい。登り返さず、ショートカットのため何とか徒渉してP458mへ。ここは樹林帯もまばらで直登できるため、曲がりくねった稜線を行くより結果的にはかなり時間短縮となる。やがてハイマツ帯となり、西面にトラバースしP786mを目指す。ここで途中のハイマツ帯より先行パーティーのトレースが現れる。しかも今までとは違い新しいトレースなのでかなり差を縮めたみたいである。  P735mの鞍部で幕営する。今日で行程を5分の4短縮できたので、今晩はアルファー米をひとり一袋食べることができる。こんな小さな事でも幸せを感じてしまう。

第五日 (5月1日、晴れのち雪)  フライにあたる小雨で目が覚める。ガスっているため1時間出発を遅らそうとしたが、2時間寝てしまった。ガスも晴れ、8時10分出発。稜線に出ると、鞍部に先行パーティーのテントが見える。武庫勤労者山岳会の3人パーティーで、やはり同じように知床岬が目標である。しかし我々と違うのは、岬からの帰路は船をチャーターしていて、毎日無線で行動を連絡している所だ。同じ関西からということで帰りの船に同乗させて頂けることになった。ありがたいことである。  今回の山行で初めて先行し、国境稜線の東面をトラバースしながらP730mをパスし、ダケカンバがまばらな斜面を直登しP862mへ。いやらしいハイマツ帯をくぐり抜け150m程降りる。鞍部から知床台地まで約450mの登りであるが、稜線はハイマツ帯で覆われている。雪のついている東面をトラバース気味に登っていく。しかし、かなり高度を上げ急斜面となったところで私の右膝が痛みだし、踏ん張れなくなってきた。トラバースを止め、雪崩ないように祈りながら直登してハイマツの稜線へ。これがまた進行方向に対して逆茂木状態になっており、しかも2m以上ある。やっとの思いで1060m付近に着き休憩。知床岳はガスりだし、時間的にも無理があるため知床岳はパスすることにする。  また稜線にはハイマツ帯が蔓延り始め、ハイマツの幹を登るようにして通過していく。やがて天候が崩れ出し、メガネのレンズが凍りつく程の西からの厳しい風雪である。数分ごとにレンズをクリーニングし、急速にエビのシッポが成長した冷たいハイマツの海を泳いでいく。1時間半ほど悪戦苦闘した後ハイマツ帯を抜け、視界が無いため右の切り立った稜線沿いに進む。ルートを外れる危険があるためこれ以上進むのは止め、ハイマツの切れ目で幕営する。  現在位置はポロモイ台地の東側外れだろうと予想していた。ほぼ予定通りの行動である。天気図は持ってきてはいたが一週間分の長期予報天気図があったため、気象通報は概況だけ聞いて天気図はつけていなかった。天候の悪化は寒冷前線の通過によるものである。夕食の後、お茶などを飲みながら明日の水や朝食の用意をしておくのだが、  「水や朝飯は明日早起きしてつくりましょう。今日はもう何もする気にならない」と栂さんの弁。栂さんは濡れると急速に意気消沈する性がある。

第六日 (5月2日、曇り後晴れ)  いつもより半時間早く起床。テントの内部の凍結は全くなく、改めてゴアテックスの威力に感心する。太陽は顔を出していないがガスは急速に晴れ出す。今回初めてアイゼンを装着し凍り付いたハイマツ帯をすすんでいくが、かなり遠くにポロモイ岳が見える。あわてて地図を見ると現在位置はポロモイ台地の手前である。登り詰めると広大な雪原と化したポロモイ台地が見える。昨日のハイマツ帯は苦労した割には、ほとんど進んでいなかったことになる。  太陽が顔を出してからは急に気温が上昇し、まさに春山という感じである。アイゼンもここでお役御免となる。国後島のチャチャヌプリも特徴ある山容を見せている。チャチャヌプリを見る度によしもと興業の某タレントのギャグ2)が思い出され、そのメロディーをつい口ずさんでしまう。しかもなかなか頭から離れない。ポロモイ台地は素晴らしい眺めで約束の地という感じであるが、雪の下に埋まっているハイマツのことを思うと無積雪期は地獄だろう。  今回持ってきた4枚の2万5千分の1の地図の最後になる『知床岬』に突入した。三角点のあるポロモイ岳(992m)を経由し、東面に残っている残雪をトラバースする。国境稜線からやや離れて進むことになるが、稜線付近は相変わらずハイマツ帯であるのでかなり楽に進める。P641m付近より正面方向に海が見え始め、ウィーヌプリの円錐の山容が確認できる。植相もハイマツからダケカンバ、エゾマツと変わりキタキツネのトレースもある。  焼けただれ3)、人の手の入ったウィーヌプリを登り詰めると、岬の西に位置する分吉湾の防波堤が見える。蒼いオホーツク海を眺めている内に「とうとうここまで来たんだ」という実感が湧いてくる。またここまで来たのだから「今日はこれくらいにしといたろ」という気持ちもありすぐ下のコルで幕営することにした。

第七日 (5月3日、曇り後雨)  今日は知床岬までの最終日であり、帰りの船に同乗させて貰うため先行パーティーから遅れることは許されない。そのため早めの3時に起床し、先行パーティーを追うことになる。昨日と同じように雪のある限り東面をトラバースしていく。約半時間程で稜線へ出ることを余儀なくされる程、樹林帯が密集してきた。P516mの手前で先行パーティーに追いつき、またピークでは進行方向にオホーツク海と太平洋が一望に見渡せられる。稜線上には雪がないが、東面にわずかに残っている残雪をうまくつないで高度を下げていく。P412m付近ではフクジュソウの群生が見られ、エゾジカもいた。やがて残雪も少なくなり、明瞭なトレースが出てくる。これは明らかにけもの道であり、周りの樹木はヒグマの爪痕がいたる所にある。爪痕は3m程度の高さにつけられており、たとえ雪があったとしてもその大きさを想像するのも恐ろしい。この後各自意識して警告音を出しながら歩く。  樹林帯の切れ目より岬近辺の海岸丘陵のササ地に出て、岬先端に向かって歩いていく。岬先端では思ったほど感動はしなかった。今回で二回目ということもあるからだろうか。でも稜線を振り返り見ると、長かった行程が時系列に思い出されてくる。  分吉湾に来る出迎えの船は予定より3時間ほど遅れて現れた。立派な漁船で、船ではビールを始め、初めて食べたキンキ汁やカニなどごちそうになった。一時間半ほどで知遠別港に着きここでお別れとなった。

今回の山行は当初の目的(スキー縦走)からはずれ、主たるピークを踏んでいない、かなり水平指向なものとなった。不幸なことも起こったが全体としてはかなり幸運な部類になるだろう。お世話になった武庫勤労者山岳会の皆様、また第三十八幹丸の関係者の皆様いろいろありがとうございました。

1)『知床大縦走』 川越晧充 1988 4月号
2)間寛平 ♪チャッチャマンボ~
3)『知床を考える』 本多勝一編 晩聲社 p192
26/Apr/’97
27/Apr/’97
28/Apr/’97

羅臼

15:00発

キャンプ場

6:00発

泊場

6:00発
0:40 2:00 2:30

羅臼キャンプ場

15:40着

里見台

羅臼平

3:00 1:45

第二壁

サシルイ岳

2:30 3:35

泊場

14:30着

P771mコル

13:50着
 
29/Apr/’97
30/Apr/’97

P771mコル

6:10発

P735mコル

8:10発
2:20 5:00

ルサ乗越

P1062m

3:00 3:00

P735mコル

14:50着

ポロモイ台地手前

16:45着
 
1/May/’97
2/May/’97

ポロモイ台地手前

6:50発

ウィーヌプリ

4:50発
1:40 0:45

知床沼

P516m

5:00 2:40

ウィーヌプリ

13:45着

知床岬

8:15着