記 川奈部隆之


メンバー:隊長  林雅樹(京都クライマーズクラブ)、唐橋芳和、川奈部隆之
期間:1996年6月3日~8月25日
プロローグ  「あぁやっと眠れる」6月3日成田発イスラマバード行きの飛行機に乗ったときの気持ちである。半年前から準備をはじめ4月~5月は特に忙しくなり、とくに5月は別送の荷物の梱包作業等でひっくりかえり、直前には自分の引っ越しもすることになり、ほとんど眠れない日々が続いた。本当にやっと出発の日という感じである。こうして落ち着くと眠い頭の後から、山に対する恐ろしさや不安な気持ちがでてくる。本当に生きてまた帰ってこれるのかと、自問自答してしまう。今だから書けるが、今回出発前には何年も会ってない友人に偶然会うということが何回もあった。そんなことを考えると、不安がさらに増幅され眠れなくなってきた。 気持ちを落ち着かせる為に書いたこの日の日記には、最後にこんなことを書いていた…一番の目標はG1の頂上にたつことではあるが、まあバルトロの源頭まで行き、いろんな山を見て、旅そして山を楽しみ前のインドのとき以上に自分を見つめなおそうと思う。どういう旅、山登りになるか判らないがマイペースで頑張るぞー!!BCへのみちのり  6月3日の夜にイスラマバード空港に到着する。翌日から早速ナジールサビルのオフィスに挨拶に行く。夜に初めてリエゾンオフィサーに会う。名前はイムランといい27才の若きキャプテンである。この日を含め5日間買物や準備におわれ、6月9日ブリーフィングを午前中に終え貸切のバスにてスカルドに向かう。途中一泊し6月10日スカルドにつく。翌日と翌々日で野菜等の最終の買物とパッキングを終え、そしてここスカルドでポーターも雇うが、私達が最初に考えていた人数より多く65人にもなる。コックのピダリー、サーダーのナフィースともここで会い、6月13日早朝アスコーレの手前トンガを目指し、3台のチャーターしたジープにて出発する。本当ならトンガまでジープで入るつもりだったが、土砂崩れのため2箇所にわたってジープ道が壊れこの日はアパレゴンというところに泊まることになった。6月14日、3時間ほど歩き壊れた道を抜け、チャーターしていたジープに乗りトンガに到着する。ジープはここ迄でここからいよいよキャラバンの始まりである。この日はここトンガ泊。

6月15日最後の村になるアスコーレで、村長さんにお茶をご馳走になり休憩したあと今日のテントサイトになるジョラを目指す。ここから先は地名こそついているが村はもう無く、無人の荒野に向かうことになる(アーミーキャンプはある)。ジョラの手前にはジョラの渡しといって激流のうえに張ったワイヤーにぶらさがった箱に乗って渡るところがあり、私達メンバーは早く渡ることができたが、一緒になったスペイン隊のポーターと、私達のポーターとで混雑し、最後のポーターがテントサイトに到着したのは夜の10時になってしまった。翌日はパイユという所まで行く。ここパイユではレギュレーションで1日のレストが義務づけられており、久しぶりのレスト日を気侭に過ごす。

6月18日いよいよバルトロ氷河の始まりである。やはり氷河上の道はアップダウンが強く、テントサイトのウルドカスに着いた時にはへろへろになっていた。歩いている途中4000mを越えたこともあって軽い頭痛がする。夜になり雨が降りだす。翌日も止まず逆に雨足も強くなり、私達は行動しようとしたがポーター達が動かず、沈となる。6月20日この日も雨であったがポーター達が頑張ってくれゴレ2という次のキャンプ地まで進むことができた。しかし最悪な事にこの日の夜、とうとう怖れていた事が現実となる。雨が雪に変わってしまった。外を見ればどんどん積もりはじめ、もしこのまま深い積雪となりポーターが動かなくなってしまったら…と最悪の事を考えてしまう。翌日の朝も雪が止まず予想どおりポーター達も動かず気分も重くなるが、昼ごろ雪も止みはじめ、夕方には遠く西の空に少しではあるが青空も見えはじめてきた。6月22日辺り一面深い積雪ではあったが、もう遠征を終えおりて来たアメリカG2隊のつけてくれたトレースの為、ポーター達は動いてくれゴレ2をあとにする。昼前から雲も切れはじめ目の前にG4西壁が見えはじめた。でかい!びっくりするぐらいでかかった。コンコルディアを過ぎたころにはドピカーンになりK2、ブロードピークも見ることができた。2時頃シャガリンというBCまであと1ピッチとなるキャンプ地に到着する。翌日6月23日やっとという感じでBCに到着した。なんかもうこれで目的を達成した気持ちになってしまう。が、いよいよ登山活動の開始である。

C1そしてC2へ

1日レストした後、6月25日偵察がてら空荷でC1に向う。トレースも出来ており、そして雪も今年は多いせいかクレバスも安定しており、思っていたより楽にはC1に着くことができたが、ただ水平距離が長くそして日があがれば40度を超す気温の為、脱水症状気味になるうえに昼ごろになればクレバスも緩みはじめて気も使いBCに戻った時にはへろへろであった。この道程をこの先何度も行くことを考えると頭が痛い。6月30日、3度目の荷上げを終えこれでC1への荷上げは完了である。ここ最近の好天により荷上げははかどるが、クレバスの状態は見る見るうちに悪くなってきており、この先C2までの道程も大変になりそうである。

7月3日初めてのC1宿泊である。順応は思ったより良く初めての標高の睡眠には不安はないが、だだここC1は日があがってる時はクソ程暑くその暑さに耐えられない。しかし眺めは絶景でヒマラヤ版涸沢といったところである。位置的にはG1が北穂、G2が涸沢槍、G3が涸沢岳そしてG4が奥穂、G5が前穂といった感じである。とくに奥穂にあたるG4の東面がすごく美しい。7月4日初めてC2へ行く。ガッシャブルムラーの基部までのべた道が見るより長く、そして最後はラーへのアイスフォールの急登と、しんどいルートである。この標高まで上がるとさすがに息も切れる。C1に戻りしばらくすると見る見るうちに天気が悪くなってきた。翌日は悪天になりC1でレストする。今回同じ山に登りに来ているスパニッシュのアーミー隊は、人工衛星を使った電話をBCに持ってあがってきており天気予報も把握していた。その情報によると、いまは悪いが、明日は回復するそうである。7月6日回復を信じC2に上がるが回復どころか悪くなり、先行していたイギリス隊のメンバーが諦めて帰った先は、深い所で腰までのラッセルとなりC2に着いたときはヘロヘロであった。帰り道C2から少し降りたところで、唐橋くんがヒドンクレバスにはまり肋骨を打つ。かなり痛そうである。積もった雪で帰りもラッセルになりあまりにも体力を消耗したため、あとC2への荷上げは1回分だけであったが翌日7月7日はBCに戻ることにする。BCにおりてびっくり肉!がある。聞くと美しい日本人女性が現われプレゼントしていってくれたらしい。BCはその女性の話題でもちきりであった。クソー、逢いたかった。(日本に帰ってから判ったが、ニュースジャパンの取材チームであった)その日の夜はうまい肉、そして満天の星空に天の川、一生忘れられない七夕の夜となる。

2日のレストのあと7月10日C1泊。この日、イギリスアーミー隊とスパニッシュアーミー隊、そしてオーストリア・イギリス混成チームのイギリス人が頂上に立った。なんとその混成チームはBCに着いて2日か3日のレストの後C1に泊まり、C2を飛ばしダイレクトにC3に入りアタックしたらしい。そしてイギリス人は頂上に立った。すごい…残りのオーストリア人夫妻は(夫婦で来ていた)なんとC3で寝過ごし頂上にとどかなかったらしい。7100mで寝過ごすとは…すごい。7月11日C2への最後の荷上げを済まし、初のC2泊を迎える。呼吸のえらさの為何度も夜中に目を覚ます。この日スペインアーミー隊の2次隊がアタックに成功するが帰路C3近く1人が滑落する。C3には収容されたそうである。イギリスアーミー隊は早々にC2も撤収し降りていった。もう1隊フランス隊はメスナールートをアルパインスタイルで目指していたが、メンバーの順応がうまくいかなかったみたいで通常ルートに転進するも、時間切れとなり敗退していった。天気が悪くなり7月12日C2よりダイレクトにBCに戻る。ここ何日かの好天でC1~C2間のアイスフォールがデンジャラスになっていた。

7月13日重大なタクティクスの変更が決まる。次の好天の周期が来たらアタックすることになった。オーストリア夫妻がC3より一緒に行動したいと申し入れてきたことにより話が始まった。彼らの話によると、毎年この時期にモンスーンの影響で1週間ぐらいの悪天が来て、その後も晴れても長続きする日が少ないそうである。「今G1で残っている私達そしてスパニッシュ・バスク隊は、リミット日も近い。ぜひ私達とバスク隊そしてあなた達と力を合わせ、サミットを目指したい」こう言われればまだC3にタッチしてなくとも、やってみよういう気持ちになってくる。特にオーストリア夫妻は7900mまでのルートは把握しているし、もしC3に入った時点でしんどければ荷上げだけにして降りればいい。あっさりタクティクスの変更が決まる。

しかし12日より始まった悪天は17日になっても回復しない。これがまさしくモンスーンでは…。悶々としたBC生活を送る。この日、5日前に滑落したスパニッシュアーミー隊の方が亡くなられた。7月20日、天気が回復したと思いアタックの為C2にバスク隊と共に入る。ここでバスク隊より重大な情報を得る。アーミー隊が亡くなられた方の搬出の為ジャパニーズクロワールのFIXロープを何箇所かはずしたそうである。ゲゲと思うがこの日とりあえずロープをかきあつめ、高度順応のため上がった最高地点にデポする。7月22日まだC2で粘るも、天気回復せずバスク隊は時間切れの為敗退していき、期待していた、オーストリア夫妻はあっさりもうひとつブッキングしていたG2に転進し、とうとうG1は私達だけになる。思っていたより傾斜の強いクロワール、ルートのとぎれた部分、そして私達だけ、もともとあてにするつもりで来てはいなかったが、あまりにもあるものがなくなり気が重くなる。翌日結局天気は回復せずBCに降りる。この日の下り、あまり視界がきかずサングラスをはめていなかったのが災いとなり、私が強烈な雪盲になってしまう。おかげでこの日の夜一睡も出来なかった。曇っている日でこんなに紫外線が強いとは…。

そしてアタック

7月27日、空は満天の星空である。深夜0時凍りついた雪面を踏み締めるようにC2を目指す。25日の昼すぎから天気が回復しはじめ、26日には雲ひとつもない晴天となったが前回の失敗もあるんで、1日待ちいよいよアタックの為BCをあとにすることになった。

このアタックまでのBC生活は、本当なら食料も尽きかけており、おかずならダルカレー(豆カレー)ぐらいしか出来ない状態になっているはずだったんだけど、BCを撤収し帰っていったスペイン・バスク隊がいろいろ肉関係の缶詰や、その他色々な食料をくれた為食欲もわき、衰えかけていた体に、栄養を補給する事が出来た。スペイン・バスク隊に感謝である。

話はアタックに戻り、この日はダイレクトにC2に入るがダイレクトでC2は初めてなうえ、出発前の仮眠も緊張からかほとんど眠れず、ほぼ徹夜状態での行動になり、C2に着いた時には不安感や緊張感よりも、とりあえず寝たいの気持ちだけで、テントを直しすぐに夕食まで爆睡し、夕食後も6400mの標高も忘れすぐに眠りに落ちる。

7月28日、いよいよC3に向けジャパニーズ・クーロワールの登攀である。C3までの標高差700m、ほぼ45度~50度の傾斜が続く。昨日の晩眠い目をこすりながらこの日の登攀について実は作戦を練っていた。本来のタクティクスでは高度順応、荷上げ、そしてルート工作の為、5回ほどのC3までの往復を考えていた。がしかし状況はタクティクスを組んだ時とは全く変わっていた。プラス面では2週間の悪天の前に頂上に立ったイギリスアーミー隊によって、C3までのルート工作はされている事、スペインアーミー隊がバスク隊の為に残したC3が、バスク隊の敗退によりそのまま残っているため使用できる事、同じようにG1をあきらめG2に転進したオーストリアの夫妻のC3もそのままで、テントは潰れているらしいがシュラフは使用できるという事である。(そのかわりどちらも荷下げを依頼されたが…)

マイナス面は2週間の悪天の為、1度はC3にタッチしておきたかったのにそれができず、前回C2に入ったときに偵察に登った6700mが最高地点になってしまった事。それによりルート工作が必要に思われる部分がスペインアーミー隊が取りはずした部分と、あとそれ以外にもあると思われるが、その状況も登らないとわからない不安と、テント、シュラフは荷上げする必要がなくなったものの食料や個人装備、生活道具、そしてルート工作用のギヤーなどで意外と荷は重くなり、それを持ちながら不意に出てくるかも知れないルート工作をこなし、自分達にとっては未知の標高にあるC3まで登攀しなければならない。そして何よりも初めての標高になる7100mに、入ったその日に宿泊する事にびびってしまう。

作戦とは、それらのことを考え3人の役割分担を決めたことである。先頭の林さんは、ルート工作のため荷を軽くし、残りの2人で荷を分け持った。主に2番手の唐橋くんがザイルを持ち、3番手の私が、食料や生活道具を持つことにした。

敗退か

前の日の行動の疲れをとるため、少し遅めの朝8時にC2をあとにする。ジャパニーズクーロワールの出だしのFIXロープの始まりの所ですでに重荷で目が回りそうである。中間部の岩のランペ状の下の部分が、やはりFIXロープが無くなっていた。林さんがルート工作をし、あとに続くが思ったより雪の状態も悪く、トップでなかったことに感謝する。ランペの部分を越えて中間部の広大な雪原部に出るが、まだまだC3は遠そうで、傾斜も45度~50度と相変わらずきつく、そのうえで出だしから重く感じたザックの荷がさらに重く感じ、止まっていても呼吸が落ち着かない。何度も唐橋くんに、「もうこれ以上行けない、荷物ここにデポするから下りるわ」と叫びそうになるが、こんな所で敗退したくない気持ちと、持っている荷の中身を考えても1人下りるわけにもいかず、一歩一歩登攀を続ける。

雪原部からガリー状の所に入り、さらにそこを抜けるとまたも雪原部になる。この部分でFIXも終わっていたが、傾斜はまだまだ強くC3らしいものなど見えない。予想していた以上に苦しい登攀になり、この時点で太陽は後のG4の影に隠れようとしており夜が駆け足で迫ってきた。喉も乾きふらふらである。林さんが70mほど直上し、ロープを固定する。ここからロープをまとめている唐橋くんと順番をかわり、その70mを上がると再びイギリスアーミー隊のものと思われるFIXロープが出てきた。トップを行く林さんは見えないが、そのロープの先に赤旗が見え、傾斜もそこで落ちているようである。赤旗まで期待して騙されるのもいやで、信じたく、信じず我慢で登ると右にテントがあった。遠くに夕焼けに赤くなったマッシャブルムなどのカラコルムの山々が見える。頂上に立ったようなうれしさがこみあげてきた…同時にこの遠征の敗退を感じた。

時計を見ると7時である。なんと11時間もかかってしまった。C3は見るとひどい状態であった。オーストリア隊のテントは潰れていることは聞いていたが、スペインアーミー隊のテントも半分埋まり、前室の入り口が裂け雪がつまっていた。もうひとつ撤収されていたと思っていた、イギリスアーミー隊のテントもあったがこれも少し埋まっているうえ2人用テントであった。シュラフはオーストリア隊の物と他にも何個かあったが、すべて無残にも凍り漬けになっていた。疲れているうえにこの状態で少し呆然としていたが、もともとあてにした私達も悪いし、なんとかしてでも泊まるしか道はなく、気力を出しテントを掘出し始める。少し遅れて唐橋くんも到着し、3人でスペイン隊のテントを掘り起こし、1つましなシュラフを選びテントに持って入り、とりあえず湯を沸かしホットポカリを飲む。旨い…うまかった…。

飲みながら誰からともなく敗退の話がでて、翌日C2に帰ることが決まる。3人とも極度に疲労しており、とても明日アタックなんかできる状態ではないことを3人とも良くわかっていた。残念といえば残念だがここまで来れた満足感もあり、そんなに悲しいことはない。その後も飲み物を飲みまくり、夕食代わりの水戻し餅を食べた後、先程1つ持ち込んだシュラフと、1つだけC2より持って上がってきたシュラフを横にして3人にかけて靴も履いたまま寄り添って寝ることにする。時計を見ればもう深夜の0時である。疲れているせいか7100mの標高ということも忘れ、知らない間に眠ってしまう。

7月29日、朝起きてまずびっくりした。爆睡してしまった。この標高でこんなに眠れるとは…。林さんも唐橋くんも同じく思いっきり眠れたそうである。ここで又も重大なことが寝起きに決まる。アタックすることになった。思ったより眠れたことにより3人とも回復したからである。大事なことがぽんぽんと簡単に決まることに、何か笑ってしまう。予定より1泊増えるんで食料をケチるため、各テントの残飯をあさり、出てきたものを朝飯とする。昼間はごろごろとして過ごすが思ったよりここC3も昼間は暑く、林さんはパンツ1枚で横で寝ている。怪しい。

三人だけの頂上

アタックすることが決まり妙に緊張してきたせいで、横になっても眠れない。夕方の6時に夕食を食べ、さらに仮眠をとるがやはり眠れない。少しうとうとし始めた夜10時、起床し早い朝食を食べ、お茶を飲み、大塚製薬のエネルゲンを作りテルモスに入れ、日の変わった7月30日、深夜1時20分、満天の星空とほぼ満月の月明かりのした、頂上を目指しC3を後にする。

C3を出てすぐに傾斜がきつくなるが、きついのもここだけだろうとダブルアックスを確実にきめ一歩一歩登る。しばらく登り少し右上すると、傾斜も寝てきた。ここがC1から見えていた肩の部分であろう。月の光が思ったより明るくヘッドランプを消す。風も無風状態でアタックには申し分ない状態である。その肩の部分である、プラトーをさらに右へトラバース状に登り、又も傾斜のきつくなる手前で休憩をとる。ここがおそらく7400m地点、昨年、富山岳連隊がC3にした所と思われる。思ったよりペースはいい。しかしここから上を見ると恐ろしく傾斜がきつい。本当にこんな所を登るのかと考えてしまう。がBCで、C3からのルートについて、オーストリア人夫妻は「プラトーを過ぎたらあとは、ひたすらクーロワールを登れ、そうしたら右上が頂上だ」と言っていた。確かにこの上はクーロワール状になっている。林さん、唐橋くんそして私の順でその急斜面へと向かう。下から見ても急だったが取付くともっと急に感じる。C3までのジャパニーズクーロワールと違いフィックスロープもない。何しろ軽量化の為ハーネス、ザイルも持ってきてない。落ちれば2000m下までまっさかさまであろう。頼りになるのは両手に持った2本のアックスと、両足のクランポンだけである。この辺りで、夜が明けはじめる。オレンジ色に染まったG2、G4がひときは美しい。そしてG2の背後から黒々とした世界第2の高峰K2が姿を現してきた。神々しい景色である。傾斜も少しは寝たりもするが、それでも45度以上はあると思われ、どっかり座り込んで休む所などどこにも無く、ザックをおろしそれにもたれ掛かるようなレストしかとれない。カメラを出す気力もなく、行動食を食べるのも邪魔臭く、一歩一歩足を前に出し、少し進んで吐きそうなぐらい呼吸をするが、それでもこの標高では呼吸は落ち着かず、またあきらめたように登りだす。この頃になるともう頭の中はほぼ真っ白な状態になり、考えている事といえば2本のアックスがきまっているか?足のクランポンもしっかり蹴り込んでいるか?どこでこのしんどい事から解放されるのか?これだけである。

後を振り向き、ちょうどG2の頂上と同じくらいの高さまで来たから8000mの標高を越したんだなあと思っていた時、先頭を歩いていた林さんが休憩されている。と思いきや、林さんの所まで行ってみると、チアノーゼを起こされたそうである。ずっと先頭を歩かれ、ルートの判断とラッセルをしていただいた。申し訳ない気持ちでいっぱいである。先頭は唐橋くんに替わり、この辺りから傾斜もさらに強くなり、雪も深い所では腰ぐらいまである。ただ頂上は目の前に見えているスカイラインが偽ピークでなければ、手の届きそうな所である。林さんも少し休まれ、体も大丈夫そうなので、もしもう一度チアノーゼを起こしたらおりることにしあと少し頑張ることにする。もうろうとした意識の中、自分の今している行為の動機づけを頭の中から探し出し、強い意志を呼び覚ます。が体がなかなか動いてくれない。先頭を歩く唐橋くん、そして林さんに、ずっとラッセルをしてもらっていては悪いんで、追いついて替わろうとするが、追いつけない。やっと追いついてラッセルを替わってもほとんど進めない。自分の腑甲斐なさに涙がでそうである。

スカイラインに見えていた所まで行くと傾斜がねてきた。いよいよかと思うがまだ頂上らしい所は見えない。偽ピークかと目の前が真っ暗になるが、さらに傾斜がねて少し進むと林さんが前できょろきょろされている。私も同じようにきょろきょろすると、今自分がいるところより高いところがもう無いことに気付く。午後1時40分、C3を出発してからほぼ12時間。頂上である。

 

唐橋くんもすぐに到着し、全員で抱き合う。そしてまず初めて見る8000mの頂からの眺め、カシュガル、インド、そしてバルトロの山々を見る。不思議と頂上に立ったうれしさはわいてこない。かわりにもう苦しい登攀をしなくてもいいうれしさがこみあげてくる。トランシーバーで、何よりもこの瞬間を心配し、待ってくれているリエゾンオフィサーのイムランと交信する。イムランの私達を祝福する声を聞いて、涙が流れ出て止まらない。

生還

どれくらい頂上にいたのだろう、何枚か写真を撮り、お茶を飲みばたばたと下山を開始したと思う。頂上にいればいるほど、うれしい気持ちをこの急峻なルートを生きてC3まで帰れるのか?という疑問が飲み込んでしまい、恐怖心だけが増幅されていったことを覚えている。

C3までの帰路、7700mの地点で雪面を少し切り、5時間程ほとんどビバークのような休憩をとる。その間に二度目の夜がやってくる。まだまだ急峻なルートが続くため絶望感が頭を覆ってくるが、それ以上に、絶対生きて帰るぞ!という自分でも驚くぐらいの意志もでてくる。さらに7400mの地点までおりるが、私の疲労の為、林さん唐橋くんまで付き合わしてしまい、2時間ほどまたもツェルトをかぶる。C3手前の最後の急斜面も慎重にくだり、日のかわった7月31日午前3時、無事C3に帰還する。25時間ぶりのC3である。

すぐにホットポカリを作り、むさぼりつくように飲み干す。眠る前に外を見るともう日の出を迎えており、中国側から湧いた雲がガッシャブルムラーに流れこみ、そこに朝の光が差し込み信じられないぐらい美しい。その時生きている実感がその雲の様に湧いてきた。そして倒れこむように眠りに落ちた。

その日は早いことC3を撤収しC2までおりるつもりであったが目が覚めるともう昼前で、体も疲労のため撤収にも時間がかかりC3を後にしたのは夕方の4時になってしまう。無茶苦茶に重い荷物になったが、ルートがコンプリートされているんで、しんどいなりにも夕方の7時、C2に到着する。

8月1日、C2もすべて撤収しC1へ向かう。ラーをおり少し行ったところであまりにも荷が重いので半分の荷物をデポし、C1に無事着く。ここで荷おろしの為あがっていたG2アメリカ隊のメンバーからBCまでのクレバスが、数日の好天で絶悪になっており、この時間おりないほうがいいとアドバイスを受ける。そしてBCとシーバーで交信している時、その絶悪なクレバスに落ちたG4韓国隊のSOS交信が入ってきた。自分たち自身もその時、救助してもらいたいぐらいぼろぼろの体であったが、そんなことも言ってられずアメリカ人1人と私達3人で即席の救助隊を作り、現場に向かう。

無事救助するが、2人のうち1人が動けずとりあえず怪我人を私の寝袋に入れ、もう1人に看てもらい私達はまたC1に戻る。アメリカ人はそのままC1に戻り、私達はC1のテントや若干の食料などを現場まで持って戻り、無事怪我人を収容する。この時、すでに時間は夜中になっており、この後もほとんど一睡もできず朝が来る。

8月2日、怪我人はあがってきた韓国隊の他のメンバーに任せ、ふらふらになりBCに辿り着く。それにしてもBC、C1間の氷河は絶悪になっており、あと1回荷おろしに為に通ることを考えると頭が痛い。BCではイムランや、ピダリーが氷河の淵まで迎えに来てくれ、そして思いっきり抱きしめてくれた。この時も涙が溢れなかなか止まらなかった。G4韓国隊のBCでびっくりするぐらいの昼食をご馳走になる。自分達のBCに戻り、自分のテントに入ったら最後、気絶するように知らぬ間に眠ってしまう。

8月3日、4日はひたすら眠り続ける。8月5日、深夜0時30分最後の登山活動のためC1~C2間のデポ地点まで向かう。氷河の絶悪さと休んでも休んでも回復しないボロボロの体の為、C1着朝7時30分、デポ地点着は10時になる。くだりも疲れているうえ、林さんがクレバスに大フォールしたりと、朝以上に氷河は絶悪で時間がかかりBC到着は夕方の5時30分になってしまう。なんと18時間行動である。BCに着いた時サーダーのナフィースをはじめ帰りのポーター達が到着していて、みんなで私達の登頂を祝う歌を、合唱して迎えてくれた。そしてもみくちゃにされる。

8月7日、45日間の登山活動を見守ってくれ、いろんな本当に数えきれない思い出を作ってくれたBCを、G4韓国隊の見送りを受け後にする。最後にG1をかえりみるが雲のなかであった。

行く時は11日かかったキャラバンも、帰りは高度順応を気にしなくていい為早く、BCを出発して6日後の8月12日スカルドに着く。帰りのキャラバン中、夜になればポーター達が笛と燃料のタンクを太鼓に歌をうたってくれ、美しい星空の下すばらしい夜を過ごすことができた。スカルドでは、シャワー浴をびるのも2ヶ月ぶり、レストランで食事をするのも2ヶ月ぶりと、あたりまえのことが驚きになり、妙な気分である。

13日、14日とスカルドでの後片付けを済ませ、世話になったコックのピダリーや、サーダーのナフィース、そして優秀だったナジールのスカルドオフィスの人々と別れ、8月15日フライトでラワールピンディーに帰ってくる。

17日にナジールサビルのイスラマバードオフィスに行って、すべての予定が変わる。飛行機のチケットが翌日の18日にもブッキングできており、最初の予定の25日とどちらか選べるという。私と林さんは18日に変更し、唐橋くんは25日のままにする。それにより外人登録の抹消や、一番大事なディブリーフィング(パキスタン政府との登山後の色々な話し合い)など、今日、明日中にしなければいけなくなる。

そんなこんなで最後までひっくりかえり最後の飛行場でも、荷物のことでバタバタし、唐橋くん、リエゾンオフィサーのイムランの見送りにも、ろくろく応えられず胃をきりきりさせながら飛行機に飛び乗り、パキスタンを後にする。と思ったら飛行機が天候不良の為なかなか飛ばず、結局6時間ほど遅れる。

イン、シャー、アッラー

その分時間がたっぷりできたので、日記を整理しこの2ヶ月半程の事をふりかえるといろんな思い出が頭のなかに甦る。本当にこんなに成功したのは、素晴らしいメンバー、隊を支えてくれたスタッフに恵まれたからだと思う。コックのピダリーには日本風にアレンジした料理など、本当良い食生活をBCで送ることができた。

そしてイムランには本当にお礼が言いたい。彼は本当に素晴らしいリエゾンオフィサーだった。大事な場面ではしっかりした軍人であり、またBC生活では、メンバーとリエゾンオフィサーというよりかは、仲のいい友人になってくれ、その彼の性格からか、他の隊のリエゾンオフィサーまで、私達のBCに集まるようになり、そしてその彼等リエゾンオフィサー達全員が、色々な場面で私達を助け、励ましてくれた。残念なことにそんなイムランにばたばたしていたとはいえ、ろくろくお礼が言えなかった。

そしてメンバーの林さん、唐橋くん本当にお世話になりました。本当に楽しい登山が出来たのも2人のおかげだと思います。7400mで2回目にツェルトをかぶり、私が先におりてくださいと言った時、2人とも、1人にはできないと残ってくれました。もしあの時1人でビバークしていたら死んでいたんじゃないかという気がします。気恥ずかしくてきちんとお礼を言えずにいますけれど、心から感謝しています。

最後になりましたが、岩峰会の皆様方には本当にお世話になりました。頂上直下のところで、「自分の今している行為の動機づけを頭の中から探した」と書きましたが、その探し出した中に、岩峰の方々からいただいた励ましがありました。そしてそれが大きな火事場のばか力となり、頂上に立ち生きて帰ってくる原動力になりました。本当にありがとうございました。

この紀行文を書くために日記を久しぶりに読み返すと、特にキャラバンが始まった頃から、やたらその日その日の結びに「イン、シャー、アッラー(神の意志あらば)」を書いている。すべてこれで片付けるイスラムの感覚に最初は抵抗があったが、登山活動が始まった頃には、口先だけでなく頭の中もそういう感覚になり、些細な場面から重大な場面まで使うようになった。アタックの時続いた好天や、そのほかいろんな場面でこの「イン、シャー、アッラー」が働いたと私は真面目に信じている。そのせいか今でも山で危険な場面に出くわした時、アタックの見送りをしてくれた時のイムランの声で、「イン、シャー、アッラー」が頭のなかをぐるぐる駆け回り、不思議と気持ちが落ち着く。と同時に何とも言えない懐かしさもこみあげてくる。

イン、シャー、アッラー

資料提供:京都ガッシャブルム1峰登山隊1996