記 中村 新 

 私が登山なるものを始めたのは21才頃であるから、今から14年前ということになる。その後岩峰会に入ったのが28才の時であり、それ以来冬山と岩登りがメインだったが、(最近は冬山からも遠ざかっているが)この14年間で印象に残っている山々というとなぜか冬山や岩登りではなくて、歩きの山々なのである。なかでも最も思い出に残るのは私にはっきりと登山を続けようと意識させてくれた、25才の時に登った御岳山ということになろうか。

 

 今、当時のアルバムを開いているのだが、時は1985年6月2日、それまで私は周囲の者などから単独山行だけはやめておけ、といわれ、友達や妻などと一緒に夏山中心に登っていたのだが、このときなぜかどうしても一人で行きたくなった。自分だけの力で3000mの雪の残っている山でどれだけのことができるのか試したくなった。天気も完全ではないがそうひどくはならない予報だった。土曜日の朝早くに新幹綿と信濃号を乗り継いで木曽福島に降り立ち、バスで田の原湿原へ。ツェルトやシュラフを詰めたザックは思っていたほど重くなかった。大部分は雪におおわれた登山道をマイペースで登った。頂上に近づくと傾斜がきつくなってきてさすがにしんどい。ガスも出だして不安がよぎる。ぼくの他にだれも登っていない。剣が峰頂上の無人の社務所の軒下にツェルトを張り、調理の準備を整える。すぐそばの噴火口からは噴気の音が激しい。何を食べたかは忘れたが、食事の後、頂上周辺をゆっくり歩き回って狐独感をかみしめたことを覚えている。

 

 夜は以外と風もなく、ゆっくり眼れたように思うが、朝目が覚めたら頭痛がする。高山病なのか、火山ガスにやられたか、不安を感じながらもいつものようにパンとコーヒーの朝食を済ませ、ツェルトの外に出ると雲海の朝焼けが美しい。なんとか天気も持ちそうだし、頭痛も収まってきた。軽アイゼンをつけ(ピッケルは持っていなかった)表面がクラストいた雪面をカリッカリッといわせていくつかの火口湖の間を抜けて岐阜県側に向かう。火口湖は分厚い氷におおわれておりまだ冬の装いだ。途中、装いがえの途中の雷鳥のペアに出会った。近づいても逃げないが、一羽に近づきすぎるともう一羽が怒りだした。濁河温泉に下りてきたときは、やった一という充実感でいっぱいだったことはいうまでもない。

 

 たった1泊2日の登山ではあったが、私にとって一つの転機となる山行であったことは確かだ。これ以降は、たぶんみなさんと同じような道を歩んで今に至っているわけである。今の夢はビッグウォールにチャレンジすることなのだが、また歩き山行に回帰してみたい気分にもなりつつある今日この頃である。