記 小瀧

槍ヶ岳、山を少しでも登るようになれば、誰もが耳にする山である。

日本に数多くある山の中でも、誰もが認める、最もかっこいい山の一つに違いないと思う。

私と槍ヶ岳との出会いは、15年前の中学1年の夏休み、家族で夏の燕岳へ登ったときであった。初日はあいにく曇っていたが、翌朝、燕山荘から外に出た時、最初に目に飛び込んできたのが槍ヶ岳の勇姿だった。「かっこいい」「いつかあの頂上にいってみたい」「自分に登れるものだろうか?」と、おさな心ながら色々と憧れの念を抱いていた。その後私を山の世界に導いていったのは、今思えば、紛れもなくあの時の光景だったのではないかと思う。

翌年の夏、早速その槍ヶ岳に登るチャンスがやってきた。父とその山仲間が、新穂高温泉→双六山荘ベースで、鷲羽岳周辺の山と、西鎌尾根で槍ヶ岳に登るというものだった。

もちろん、私も同行させてもらい、長い長い小池新道を登った。途中、鏡平からは風雨が強くなり、当時はゴアのレインコートというものはなく(あったのかもしれないが、高額のためか?我家にはなかった)、ポンチョをはおり、クタクタになりながら双六のテン場についた。テントの中でラジオを聞くと、数日は大嵐の予想。結局、翌日下山することになった。私は、槍ヶ岳に登れないことに加え、ここまで来て、どの頂上にも立てないことが悔しく、(当時、山の頂上の石を集めていたこともあり)、「一人でもいいから、双六の頂上までは行きたい!」と暴風雨のテントの中で訴えたが、父に「バカヤロウ」と一蹴された。その晩は、水浸しのテントと雨のしずくが顔を打ち寝つけないシュラフの中「もう二度と山なんて来ないからな!」と誓っていた。

それから、高校・大学時代以降は、部活で忙しかったり、バイクやお酒など別の遊びに目覚めたりと、1シーズンに1回くらい友達と登る程度で、山から少し遠ざかっていた。

そして今から丁度3年前、関西へ転勤したのをきっかけに、以前ネパールで偶然知り合った川奈部(隆)さんの紹介で岩峰会に入会した。

その夏、「せっかく、岩峰に入ったし、ちょっと頑張らないとだめだな」「一人でマイペースにどこかへ行こう」と思い立った先が、長年の憧れ「槍ヶ岳」。コースは、せっかく日数もあるので裏銀座から槍を目指すことにした。

烏帽子から鷲羽・雲の平・黒部五郎と縦走し、三俣のテン場まではずっと快晴。道中、近づいてくる槍ヶ岳を眺め「こんどは行ける!!」と焦る思いをしずめながら、歩を進めた。

しかし、しかし…約10年ぶりに懐かしの双六山荘に到着し、さあ「明日は槍ヶ岳だ!」というときになって、天気は崩れた。翌日は朝から暴風雨。一日テントで沈して待ったが、翌日も変わらず。しかも、前日に上高地で震度5の地震があり、ルートも一部崩壊しているとの情報が入ってきた。そんなこんなで、三俣から合流している父の誘惑(一緒に双六から下山するなら、実家まで電車でなく車で帰れるゾ)を振り切ってまでは槍ヶ岳に突っ込めず、この年もあえなく敗退…二敗目…

そして、その一年後、みたび槍ヶ岳を目指す機会がやってきた。岩峰の1999年冬合宿である。3度目の挑戦は厳冬期、文句なしのシチュエーションである。

当初、リーダーを予定していた仕立さんが仕事で参加できなくなった。確定しているメンバーは、新名君と陽子さん、富永さんと僕の4人。皆、岩峰入会後2~3年目でまだ冬山経験が浅いため、経験豊富なリーダーを別に探したが、同年末の剣小窓尾根組に主要メンバーが入っていたり、他の人は仕事だったりと、なかなか見つからなかった。「リーダーをどうするよ。もうすぐ年末だよ!」とメールをやりとりしている内に、だんだんと4人の中で「いっちょう先輩方には頼らず、自分達で計画を立てて登ってやろうや!」と盛りあがってきた。(当時)CLの唐橋(芳)さんに恐る恐る打診をしてみると「中崎尾根ならなんとかなるだろう。無理をしないで、厳しかったら引き返すこと」ということで許可をもらった。11月も終わりの頃だった。

12月に入り、皆で計画を立てるため、仕事帰りに大阪の飲み屋で打ち合わせをしたり、金毘羅にアイトレ行ったりと、準備を着々と進めて行くうちに、4人の結束も強まっていった。

1999年12月29日夜、京都駅を中西さんや明川会長らに見送られ、小窓組と一緒に出発。年末の天気予報はあまり良くないが、「行けるところまで行こう!」と一致団結、車内で盛りあがる。30日深夜に新穂高温泉着、駐車場にテントをはる。初日の行程は、新穂高温泉から槍平まで。天気は上々。思ったより長かったが、問題なく槍平着。翌31日は、中崎尾根の中腹で幕営予定。31日未明、恐らく槍平泊の中では一番にヘッドランプを付けて寝静まった槍平を後にした。天気は良さそうで、空には星が瞬き、後方には蒼白い槍ヶ岳と穂高連峰がそびえていた。奥丸山への急登を1歩づつ進んでいくうちに、その山々はぐんぐん近づいてくる。中崎尾根に入り、夜も明けてくると、真っ青になってきた空の下、真っ白な槍ヶ岳が見えてきた。数日積雪はなかったのか、明瞭なトレースがついており、4人は槍ヶ岳目指しぐんぐん進んだ。「これは行ける!!今度こそ!」という思いの中、さらに汗を拭きながら進む。北側には2度も意気消沈で下った昔懐しの小池新道が望めた。予定では、ラッセル状態を考慮していたので、行けるところまでいって中崎尾根泊だったが、ルート中の核心であったジャンクションピークの登りも、ピーク下をトラバースするトレースがついており、難なくクリア。あれよあれよと9時過ぎには西鎌尾根についてしまった。無風快晴の中、快適に西鎌尾根をつめ、12時前には槍の肩に到着。トレースのありなしで、こんなにも行動に差が出ることを改めて実感した。

小屋の横に積もった雪を削りテントを設営。まだ、昼過ぎである。槍の穂先が快晴の中、目前にそびえたって、今度こそ私を受け入れてくれそうな顔をしている。穂先は他の登山者で渋滞しているため、少しテントで休憩し、待つことになった。3人は既に夏に登っているためか余裕の休憩だったと思うが、何度も苦杯を経験している僕としては「いつ天気が崩れて登れなくならないか…」と、居ても立ってもいられなかった。だいぶ人が減ってきた2時過ぎに、ようやく再出発。岩慣れしている陽子さんや富永さんは、ロープなしでスイスイと登っていく。僕は自信がなかったので新名君にロープを出してもらい、恐る恐るだが、頂上へ向かえる喜びをかみしめていた。

3時頃、狭い頂上に到着。頂上は自分達4人だけ。快晴無風。360度の展望。皆でがっちり握手をして成功を喜び合った。僕にとって、3度目の正直。ましてや、1999年大晦日、西暦1000年最後の日に登れたことは、最高の思いでとなった。翌、1月1日は予定を繰り上げ、下山。雪が安定しているため、飛騨乗越から飛騨沢を一気に駆けおり、昼過ぎには穂高平着。余裕の下山だった。

「槍ヶ岳」、かっこよく言えば、私にとって山に登り始めるきっかけになり、試練と挫折を与え、そして頂上に立つ喜びとかけがえのない仲間を与えてくれた山。

岩峰のみんなも、そんな山やルートの一つや二つを心の中に持っていると思う。そんな素晴らしい山を、これからも皆で一つづつ増やしていきたい。